昭和五十年十二月六日            真の道の心得

真の道の心得というのですから、真の道の心得と聞いて頂きたいと思います。
まあお話の眼目をいうなら、真の道という事になるでしょうね。真の道、真の道というお道は、本当のという事です、ですから本当の道という事です。
ですから本当の道がわかったら、お徳が受けられる。
だから本当の道がわかり行じてゆけばお徳が受けられる。本当な道がわかったら、もうそれは幸せの道に出ておるという事です。幸せになるという事です。
本当のおかげというのは、私は人間のいうならば、一切のものに恵まれる。
健康、経済、また人間の上にも、ですから人間の幸せの条件というものが、足ろうおかげを頂く事が真の道です。だからその真の道を愈々体得さして貰わねばいけません。
私は今日は本当にそこんところを感じさせて頂いとるところに、今日はここのところですから思いましたけど。
最近、まあ昨日の御理解を頂きますと本当のことを目指して、信心をするという事、信心の焦点というのが、本当のところを目指して信心をする、本当の事がわかる。
だから本当の事がわかるためには、どういう事にならねばならぬかというと、やはり信心をするものは肉眼をおいて心眼をひらけとおっしゃる、心の眼をひらかなければいかん、心の眼を開かなければ、本当の事がわからんのです、私はね、この本当の事がわかったらね、この教典のすべてが身について来ると思うです。
教祖様のみ教えは、難かしい事はおっしゃってないですから、本当な事がわかったらです、どの一ケ条でも仇やおろそかには出来ない事、ものばかりですけれども、またそれが身について来ると思うです、本当の事がわかったら。
この御教えは行じきるけど、このみ教えは行じきらんといった様な事はないです。本当な事がわかったら、教典のすべてが段々身について来るです。
そういう意味で成る程、本当な事がわかることは、そういう意味で大変な事だなと思うです。
話を聞いてわかるという事だけぢゃなくて、それが本当のことが自分の身につくという事ですからね。自分の信心をあんまり、まあ自惚れの様でございますけれども、昨夜壮年部会の時にも話さして頂いた事なんですけれども、私の様な人間でもです、私の様なものでも、これだけ助かって来ておる心の状態、まあ形のてんにすべての点におかげを頂いておる、それで私がもう寝てもさめても思うことは、皆が私の様におかげを受けられたらどんなに素晴らしい事であらうか、どんなにか神様が喜んで下さるでおらうかという事であります。もう助けたい助けたいの一念が神様のお心であるなら、私の心もそうであります。もう助かって貰いたい、助かってもらいたいの一念です。
世の中には助からん人が沢山あります、助かってない人が、金は山ほど持っておっても、健康は隆々たる健康を頂いとっても、それでも助かってない、毎日毎日がいうならば不安、焦燥、腹が立ってしかたがないという生活です。淋しうてこたえんという生活、助かっていない人が一杯なんです。そういう中にあってね、私が助かっておる事がです、私位な人間でもこれ位助かるのであるから、皆もひとつ私の真似をして、まあ私の言う事を聞いて、助かって欲しいなあ、一つも助かっておらん。                                       
そしてね皆さんもやはり、人を助けなければおられないという信心になって頂きたいと思います。まず我が身におかげを受けてということは、まずは我が身が助かってという事です。助かったら助けにやおられんという心が湧いてくるです。
そこには自分の歩いて来た道を人に伝えればもうそれは人が助かる道であり、幸せになる道です。だから私の信心体験という事を、まあいつもきいて頂きますけれども、私の様な行き方をすれば、心も助かる形も助かる。
そして私は思わせて頂いた、まああんまり大きな事を言う様ですけれどもです、それは私の心の眼が開いておるという事です。そしてこのみ教えのすべてをです、こうやってバラバラ読んで見る、繰り返してみて、どれもこれもが身についてしまっているなと思ふんです。み教えが一事、二事ついて折ってはいかんのです、これはね、本当な事がわかったら、このみ教えのすべてが、自分の身に所謂血に肉になってくるです。その様にです、教祖様のみ教えというものは、もう人間の身近に、感じ頂けるみ教えです、そりゃもう長年信心しよるけども、一ケ条もまだ自分のものになってないという様なことを昔から沢山の人から聞きました。結局本当の事がわかっていないからです、本当な事がわかったら、わかる、本当なことがわかったらという事です。
本当な事が身についたらということです、という事は皆さんわかっておられる。
会楽に朝参りどんなさる方は、本当な事はみんなわかっとんなさる。
例えばなぜ成り行きを大事になさらなければならないか、なぜこの方の道は喜びで開けた道ぢゃから喜びでは不自由はさせんとおっしゃるが苦労せんで済むか。
昨日も石井喜代司さんの例をとりましたが、始めの間は、腹を立てちゃ馬鹿らしかという本当のことがわかられた。もうそれはすぐお陰につながる事だから、腹立てたらたんびんにおかげがくずれる、それを徹底して腹を立てんという事を、決めただけでもおかげが、商売が、なら繁盛する、健康なら健康が頂ける、人間関係は勿論スム一ズに行く、腹を立てんというだけでもそれが段々わかって来たら、起きて来るすべての事をです、金光様の御信心は喜びで受けて行く以外はないんだと、有り難しで受けて行く以外はないんだとという、より本当那古とが分かって来たわけです。
そこがわかったらこのみ教えの一つ一つが自分のものに、もう本当に麗しいものを食べる時に、血になるごたる肉になるごたる風にです、このみ教えと言うものは、素晴らしい味わいのものとして、自分のものになって行かん筈がない程のことなんです。
順調にスム一ズに入って行くのですね、本当な事がわかったら、例えば商売人がです、十銭のものは八銭で売れと、所謂八銭で売らなければ折られなくなって来るです、本当な事がわかったら、本当な事がわからんから中々十せんのものは十一銭で売らうごたる心が起こってくるのです。
私はおかげは和賀心にあるという、いうのはお道の信心の、所謂天地書付なり、天地書付のでもです、本当なことがわかったら、和賀心は身について来るです、もうしかも年を取れば取るほど、一年一年にです、それが本当なもの、その教えのすべてが本当なものになって行く、血肉になって行く、和賀心が本当なものになって行くのですから、もう本当に神様も愈々この氏子は愈々安心という事になるから、またこちらの安心が愈々本当なものになって来る。 本当な事がわかっちゃおるけれども、本当な事が身についちゃいない、まあほんとうな事という事は、どういう事かというと、まあ大真理というても良いでしょうね。
この方の道は喜びで開けた道ぢゃから、喜びでは不自由はさせんとおっしゃるもう大真理です。成り行きを大切に尊ばせて頂く、その出たとこ時点、時点を合掌して受けて行くという行き方、これはもう真理です、大真理です。
私は今日は本当に一つの発見をした様に思います、思いがするんです。
本当なことがわかったら教えのすべてが、もう自然と身について来るという事です。つかぬ程おかしい位、身について来るのです。私はこの中で一ケ条でも二ケ条でもこの教えが身について来るならと、そういう風な思いでおったところが、そうじゃないです、本当那古とがわかったら、この全部が血に肉になって来るです。
どのみ教えを聞いてもははあ私はおかげ頂いとるなあ、という事になるです。
例えばね、真の道の心得。
口に真を語りつつ心にまことのなきこと。
と例えばあるとするか、真の本当のことがわかったら、口に真を語りつつ心にまことのなきことてんなんて、もうこげな馬鹿なことはなかから、心に真のないことは口に出されなくなって来るです、本当な事がわからんから、心にも思はんことを口に出してしまうのです、みんなそうですよ、み教えのすべてが。                              
腹立てば心の鏡の曇ること。
 腹だん立てられんです、いつも研きに研いてある。
我が心の角でわが身を打つこと
 もなくなるです。
人の不行状を見て、我が身の不行状になること。
 という様なこともなくなるです。
物事に時節を待たず苦をすること。
 もないです。
壮健なとき家業をおろそかにして、物事に驕ること。
 もなくなるです。
信心する人の真の信心なきこと。
 という事なんかがね、もう全部身についてくるです、本当な事がわかったら、だから本当の事がわかるでしょう、だからそのわかった事を基準にして、生活のすべてがなされてゆかねばいけんです。
熊谷さんの言葉ぢゃないけれども、起きてくることすべてが、良いこと悪いことすべてが、より本当なことをわからせて下さろうとする、神様の御神慮以外にはない、大真理です。本当なことです、それは。
起きて来るすべての事がです、私をより高めて下さろうとする、よりおかげを下さろうとする、より力を下さろうとする、御神慮以外にはないのです、だからそこを皆さんわかったらです、そこんところを一つの基準にして、物事をはかって行ったら、間違いがないです。
はあ子供が悪いと思いよったばってん子供ぢゃない、自分
昨日子供さんの悪いことをお届けがあっとったから、そのことをお礼を申さして貰いよりました。いやお願いをさせて貰いよりました、そしたら『ねずみもち』というもちの木があるでしよう、ここの西側の塀がもちの木ですね、ねずみもちです。あれに黒い実が稔るでしよう、あれに黒い実がなるです。それを頂くんです、子供さん心具合が悪い、親がお願いに来た、その事をお願いさせて貰いよったら、所謂ははあこれは、子供の病気ぢゃないなあ、親の病気だなあということです。親の心持ちが悪いということです。
親の心を清めりやすぐおかげを頂くと言う、意味なんです。今日参って来たらそのことを言ってあげようと思うのですけれども、本当な事なんですそれが。
家の子供は言うことを聞かん、だから子供の事をお願いするという事は実をいうたら間違っておるです、もう私自信の間違っておることに改めて行けば子供は間違いはせん、という程に親の心と言うものは、密接な連繋があるのです。
ね、だから本当なことをそこに焦点をおいたらです、本当な事に焦点をおいたら私は昨日おもいましたですけどね、本当なことがね、いつもわかっておる人には、本当にお取り次ぎがしよいと思うです、ね、本当のことがね、いつもわかっている人がです。なら子供のことをお願いに来るです、ならこれがいつも子供の病気は親の病気といわれる位ですから、あんたが改まってよかたいのと、言われるわけです、本当な事がわかっている人には、それが言えるわけです。
そして本当な事がわかってひれを行じて、その本当なことが、自分のものになりきったときにあなたは、助かったといえる助かる、という事になる。本当那古とがわかったということはもう、愈々この道さえ行けば、幸せになれる助かるという幸せの道になると思うです。
会楽で皆さんに聞いて頂いとるお話がです、わかる、わかったという事がもう、これから幸せになるという事です。幸せの道に出たということなんです。
だからそれを間違いなく歩いてさえ行けば人間の幸福のすべてを身につけて行く事が出来る、ね、だからまずは本当の事がわかるということ、ね。
いろんな難儀な問題を持ち込んで来る。本当なことがわからない人にはもうどんな風にといて良いか、といても空々しいものになるらしいです。
だから本当な事がわかっておる人二は、一口私が言うと、はあとわかるんです。
どうでも会楽では、本当なことがわからにやいけんです、もう本当な事がわかるという事は、本当な事がわかろうという姿勢がわかる事は、その場出分かるで酢、本当なことはわかろうと、唯自分の事を頂かんならん事だけでもういっぱいでですね、おるものに本当なことを私が此処で伝えても、本当な事として伝わっていかんです。
けど本当な事がわかりたい、というてお参りをして来る人には、本当な事が伝えられるです、はあやっぱりそれが本当だという事がわかるです。そこで人ぢやない彼ぢやない、という事にまでにはなって来るわけです、本当な事がわかるです。まことの道という事にはです、本当の道という事です、本当の道に出るということはです、ほんとうの道がわかつたという事はです、もうあなたは幸せの道がわかつたという古碑とです、だからそれを一つ一つ行じて行けば幸せ間違いなしに、間違いなしに幸せに向かって歩いていっとる進んでいっとるという事になるのです。
本当な事がわからないから、久留米行きばいというても、吉井の方に歩いて行よるという事になるのです。唯本当な事がわかり、それを信じる、そこからその教えのすべてをです、難かしい事ぢやないその一つ一つが血肉になつて行くと思います。
だからその聞いた、わからせて頂いた、本当な事をです、実証してゆく事のために、成る程これが本当なことだとわかることのために一つ一つをや  行じてゆく稽古がいります。
もう肉眼をおいて心眼を開いたらね、もう問題はないわけです、本当な事がそこにわかるのだから、けども神眼『心眼』を開くまでにです、いうならば教えの一つ一つを行じてゆくということです。                                                    
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昨日ある方がお参りをして来た、ところがもう本当なことがわかっていないのに願い事だけは大変深刻な事が、問題なのです、だから本当なことが説かれないわけです、本当なところがわかってない、本当な事がわかってないから本当なところが、当たり前の様ですから、本当な事がわかってないところに本当なことが説いてもわからないです。
だからその人の例えばその願いをです、まあ一つづつお取り次ぎして聞いてもらう、その程度にしか聞いてもらえないです、その人が本当のことがわかつておれば、こうばいと言う事がすぐ言えるんですけども、その本当のことすらがわかってないのですから、だから金光様の信心というのは、そのまことの道というのがわかって、その真の道に添って歩いて行く事に教えられるわけです。
それでその方が帰るときに、私はこんな事を書いてやった、夫婦でようとこのことを読みなさい、朝から愚痴を言うな、運命が悪うなる、勤めに出る主人を今日も無事に働かせて下さいませと、祈る心で送り出せ、妻の真心は主人に通ずる、毎日健康で働ける、こんな平凡なことが一番有り難い、給料が安い高いは次ぎの問題である。
公害より多い口害がある、公害といはれるのは一般に言われる公害ですけど、ここで言つておるのは、口の害という事です、人の悪口を言うたりね、無駄口を叩くという様なことです、口害です、公害より多い口害がある、言葉で人を傷つけ人を殺す言葉がある、人の悪い事を言わぬがよい。
例えばこういう簡単な事を、いうならば守って行くという事です、信心とは。
そして守って行きよるうちにです、私がここで本当のことを皆さんに聞いて頂いた、その裏付けが出来てくるです。
誰でも幸せになりたいと言うてここに参ってくるです、そこで幸せの道を教えるわけです、これはほんの序の口です、此処んところ。例えば聞きよって、ここんところほんの幸せになる序の口、本当な事という事ぢやないですこの事は、本当のことの入り口なんですこれは、だからこれを本気で守って行くという事ですよ、これだけは本当な事ですね。朝から愚痴るなと、運命が悪くなると、これはもう絶対本当な事です、勤めに出る主人をです、今日も無事働かして下さいというて、真心をもって主人を、神様に祈る心になれ給料の高い安いは次ぎの問題、給料が高いとか安いとかは問題ぢやないと言ってないです、次ぎの問題だと、そこでです、なら今日私が実行しなければならないことは、自分は不平不足を言うておった思うておった、または口害、人の悪口なんかはもう絶対、今日からはいわんという事になる、その事を実行するという事です、然もその口害がです、自分の悪口が、人を傷付けたり、人を殺したりする様な事になるのだから、これを実行せよという事です。
これはほんの、ほんとの事がわからない、それでも幸せになりたいと願う人にいわば一番はじめに、これは言うならば教える事に適当だと思ったからこれを書いてやった、本当な事が此処で聞いてわかり乍ら、今ここで言うた事だけでも、なら実行出来とらん人がありはしないでしようか。
それではね、いつまでたっても本当の事を聞いても本当のことの裏付けが、出来てこないです。
起きてくる一切が、皆天地の親神様が、より本当な事を分からせようとして下さる、事はよりおかげをくださる、ろうとする、より力を下さろうとする、働き以外にはないとそれが信じれたら、もうあなたの前には問題がないという事になるです。そういうものが段々身について来たら、教祖の教えのすべてがみについて来るです。
これを守らなければ馬鹿らしうなって来るし、そしていつの間にかやっぱり守っとるです。私はこれを全部見てみてからです、今日はそれを思いました。
ほんにこりや出来とらんということはいっちょんなかたいというて、今日は思い増した。それはなしかというと、私が本当な事がわかって、それを本当なおかげを頂いて、私が心の上で助かって、それで私が皆さんに、私位の人間でも、この様な助かり方が出来るんだ。
そこで助けたい、助けたいというのは大変おこがましい事ですけど『烏滸がましい』、やはり助けたいです、もう本当に助かつて貰いたい、助けたいのもう暮れても明けてもこの事ばっかりです。そこでなら皆さんが助かって下さる、ただ皆さんも、明けても暮れても人が喜ぶこと人が助かる事ばしっかり、を考えられる立場に立場が変わってくる、そこにです私は、本当の助かりがある、神様の喜び頂けれる助かりがあると思うんです。今まだ何もわかっていないわかっていない人、それでも幸せな人になりたいという人にです、私が今読ませて頂いた様な事がです、これは幸せになる、幸せになりたいならば、幸せの道の入り口だから、ここんところだけは実行しなさいよ、というのです。そこんところを実行せずしてはいつまでたっても、本当の事を聞いてもです、わかってもです、わかったが、わかっただけであって、論語読みの論語知らずというわけです。本当の事がわかって、本当の事が自分の身になる血に肉になる、事を楽しみに信心さしてもらはにやいけません。本当な事がわかりそしてわかったらそれが、本当な事が自分のものになる、ね。
お話の中に、所謂子供さんの病気のお取り次ぎさして頂いておったら、もちの木の黒い実がなっておるところを頂いた。
あれは実がなるときには、必ず肥料が欠げておるところだそうです、ね。
実がなるときには、自分自身は枯れてもよいという、枯れるというおしらせだそうです、だから種を残しておくわけです。
そういう不思議な働きが植物にもあるわけです、だからその親自身がです、やせておる事をまず悟らせて貰って、そして子孫の病気は親の病気だという、本当なことがわかった時です。親が改まる、親が心の豊かな肥料を施さして貰う、いうならばみ教えが本当のみ教えとして、心に入って行くときです、子供が助かるのです。
今日私は大言壮語という事になるかも知れません、けれども私は思うて本当なことがわかったら、教祖様のみ教えのすべてはです、が身につくという事です。
ね、わかった事を行じて行けばですよ、然もそれが幸せの道、それが難かしい事かというと難かしい事ではない、という事です、どういう問題があってもです、それを自分自身の手元のところえ、処理が出来てゆく、という事を自分の心を広く、豊かにする事以外にはないね。他の者に頼んでそれを処理しようとするところに、折角の肥料が肥料にもなにもならない事になるのです。私はまあ会楽ではほんとに、まあ何と申しますかね、いうなら本当なことまことの道を、聞いて頂きよるのですから、そこがわかったら、それを愈々自分野物に、自分の血肉に、のために、例えば今日の御理解の例えば一言でもならそれを行じて行くという、行き方を身につけておるということ、そこに言わばそれの裏付けが出来てくる。
昨日、私が或るかたに書いて上げた様にです、公害よりも口害が多いといはれるのですから、ああもう本当に自分がおしやべりをして、自分が汚い言葉を使ったり、憤りの言葉を使ったりする事によって人を傷つけたりする様に成る程、神様は喜びなさらん筈だと、それこそ今一般で言われる公害よりも広いんだと、口害は、口を衝いて出る言葉は、有り難い事だけしか言わんぞと、もう今日を境に、決めるという様な行き方にです、愈々本当なことを本当な事として、身につけて行く事でありいうなら幸せの道をもうふみ出したという事になるです、ね。
幸せになりたいと思いながら、幸せの道を歩む人が少ない、お参りをしておかげを頂きたいといひながら、おかげのいただける道を歩く人が少ない、ただおかげ下さい、おかげ下さい問い得とる竹では、本当のおかげにはならない。
今日はここんところをですね、本当なことがわかったら、この教祖のみ教えのすべてが、自然に自分の血に肉になって来るんだと、それを教祖の言葉を借りると、信心する者は肉眼をおいて心眼を開けと本当なことがわかるということ、心眼をもって見るときに本当なことがわかるということ、その本当なことがわかって来ると、例えば教祖のみ教えのすべてがです、守らなければおられないものになって来る、そこにそのみ教えが全部血に肉になるのです、そこにあなたが助かるという事になるのです。その助かりがです、自分が助かったらもう本当に人も助かってもらはにやおられない、もう助けずにはおられない、人が助かる事ばっかりしか、考えんで済む様な一つおかげを頂いてもらいたい。
こっちが助かりたい、助かりたいというのではなくて、人を助けたい助けたいというこういう場が変わって来るね、自分のおる場が変わってくる様な、一つおかげを頂きたいですね、どうぞ。